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1/7.5 Rhonsperber(レーンシュペルベル)
組み立てキット

■製品内容
 胴体、主尾翼レーザーカット
■スペック
 全幅=2026mm
 全長=808mm
 主翼面積=30.6d㎡
 飛行重量=950〜1020g(電動時)
■推奨パワーユニット・メカ
 ブラシレスモーター(φ28mmクラス)
 プロペラ(9×5折ペラ)
 リポバッテリー(3S1320mA)
 モーターコントローラー(20Aクラス)
 送受信機(5ch以上)
 マイクロサーボ(5個)

○製品特徴
キットは実機資料から1/7.5にスケールダウンし、複雑な胴体構造を完全レーザーカット化し、扱いやすいサイズにまとめました。
フライトはキビキビとした、運動性能をもっています。スポイラーも装備します。


キット価格 20,000円(+消費税)

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<初期の歴史>

Rhonsperberほど華々しいデビューを飾り、そしてグライダーとしての存在期間が短かった機体は他に類を見ない。デビュー後、瞬く間に数々の勝利をその手中にしながら、3年後の1938年にはレーンのグライダーコンテストでは、わずかに一機のみのエントリーとなってしまったのだ。それは1938年の前2大会においてレーンの天候がMuのような低翼面荷重の機体に有利であったことにもよるが、当時の機体デザインの急速な発達が大きく影響していた事は否めない。そうではあるものの、デビュー当初の大成功は、Rhonsperberが特筆すべき優秀な機体であったことを雄弁に物語っている。

 ルードヴィッヒ・ホフマンの操縦する、胴体に“D-Rhonsperber”と書かれた新造のRhonsperberは1935年のレーン大会においてチェコスロバキアへ474kmの滑空をおこない、当時の世界記録を打ち立てた。さらに彼は休む間も無く同日のうちにベルギーのアルロンへの320kmのフライトをおこなっている。ところが、この記録はその週のうちにチェコスロバキアのブルノまでの507kmを飛んだ4人のパイロットにより破られることになる。その1人には、“D-Nobel 2”と書かれたRhonsperberを駆るハンス・ハイネマンや、コンドルでこの記録を打ち立てた後、機体曳航の際の事故により束の間の栄光に終止符をうたねばならなかったルドルフ・オエルツネルの名がみえる。ちなみにこの時の世界記録はその栄光を称えて、死後彼に送られている。

 ほんの一週間の間にRhonsperberは二つの輝かしい距離の世界記録を打ち立てている。1935年8月21日には、アーウィン・クラフトがホーンベルグ-ケルン間330kmの都市間飛行世界記録を樹立した。彼は、残念な事に1944年東部プロシア防衛の任務に於ける空中戦で命を落としてしまうのだが、1939年のレーン大会にはReiher3で優勝もしている。世界記録を打ち立てた時の飛行でこんなエピソードが残されている。彼がケルン上空にたどり着いた時、高度が既にかなり低く、はじめは飛行場を見つけ出す事が出来なかった。刻々と過ぎる時間、高度は更に落ちてゆく。悶々とした数分が過ぎた時、地上から飛び立ってくる航空機を目にした彼は咄嗟にその上昇角度から発航場所を目算し機首を向けた。と、彼の目に滑走路が飛び込んできた。が、時既に遅し。そこに到達するには、彼のRhonsperberは高度を失いすぎていたのである。

 1935年9月に行われたユングフラウヨッホでの国際大会で、ルードヴィッヒ・ホフマンがRhonsperberで距離部門に優勝している。また、1936年7月の都市間飛行部門でダルムスタット-ニュルンベルグ-ミュンヘン-シュトットガルト-ダルムスタット一周競技ではRhonsperberでそれぞれカール・バウアーが2位、ハンス・オスマンが3位に入っている。

1936年の8月19日には、ハイニ・デットマーがババリアからアルプスを越えてイタリアへ飛ぶという世界初の快挙をこのRhonsperberで達成した。また、翌年の1937年5月22日にはポール・スタイニッヒがグルナウ上空で5760mというグライダーとしての高度世界新記録を樹立している。これらの事からも解るようにRhonsperberは当時としては卓越した性能を誇っていたが、航空ショーや航空機展示会でも引っ張りだこの人気であった。エルンスト・ウーデットは“D-kommandant”というレジストリの自ら所有するRhonsperberで1936年のベルリンオリンピックに参加しているし、後にはドイツチームを率いたユングフラウヨッホの国際大会でもRhonsperberに乗っている。その時は、Rhonsperberを初めとする多くの機体のノーズに五輪のマークが描かれたのである。


<ニューヨークを飛んだRhonsperber>

 1936年には原設計者ハンス・ヤコブス自身によって2機の特別仕様のRhonsperberが作られた。その一つはSperber Juniorとして有名な、ハンナ・ライチェのためにまるで手袋のように彼女の体型に合わせて作られた機体である。ハンナは決して大柄ではなかったが、その彼女でさえ“挟まれる”と感じるようなような狭さだったので、当然彼女以外の誰もそのコクピットに搭乗することは不可能であった。この機体のコックピットに座った彼女は、「まるで私の肩から翼が生えたように感じさせてくれる機体」で、自分が「機体の一部になったよう」だと言ったというエピソードが残されている。そして、もう一機は、1936年にルードヴィッヒ・ホフマンがレーンの大会で飛んだSperber Seniorという機体である。大会時の天候が、風はなく暑くてMu 13が得意とする気象状態であったことは先に書いた通りである。このSperber Seniorは、後にペーター・リーデルがハドソン川に浮かぶアイランド・エアフィールドへ着陸する際にニューヨークの真中を飛んだことは有名で、彼が撮影した、ガル翼越しに見えるマンハッタンの摩天楼の写真は一見の価値がある。Sperber Seniorの飛行性能自体は素晴らしかったものの主翼の翼型の選択に何らかの理論的欠陥があるとの情報が寄せられたため、彼はすぐさまドイツ本国へ機体を送り返したが、その後この機体がどうなったかは、現在に至るまで不明である。

 一方、1936年のレーンの大会をSperber Juniorで参加し5位入賞を果たしたハンナ・ライチェは、1937年3月にザルツブルクで開かれたISTUS国際大会にもこの機体で参加している。そして、13000フィートの高空を飛び注目に値するイタリアへのアルプス越えを行っている。猛烈な寒さに叩きのめされながらも、輝くアルプスの峰々を越えてGross Glocknerを過ぎたものの、それ以上の飛行は彼女の限界を超えていた。そしてそれに追い討ちをかけるように雨が彼女の行く手を阻んだ。そこで彼女は眼下の小さな村にあるイタリア軍の兵舎に隣接するフットボール場への強行着陸を試みるのであるが、最終アプローチに入った彼女の目に飛び込んできたものは、行く手を塞がんばかりに立つ2本の木であった。遂り直せるだけの高度もない。両翼を犠牲にして胴体を木の間に滑り込ませる事を彼女が決意したまさにその時、奇跡が起こったのである。突然、上昇風が機体を持ち上げ木々の上を掠めるようにして場内に無事着陸したのである。ハンナは、寒さのためコクピットから出る事はおろか、話すこともできなかったという。すぐさまイタリア軍の兵士たちが彼女を助けあげ、彼らの肩に担ぎ上げられた彼女と愛機は、兵舎へ勝利の行進をしたというエピソードが残されている。

 Sperber Junior とSperber SeniorはともにRhonsperberと同一とまでは言わないまでも近似した翼型を持っているが、設計図や諸元を見れば一目瞭然の事ではあるがその他の部分では全く異なった機体だと考えてよい。


<イギリスにわたったRhonsperber>

 ジョアン・プライスは30歳代のはじめにヴォルフ・ヒルトにグライダー操縦の手ほどきを受けている。彼女は1935年に再度ドイツへ渡りサー・アラン・コーム・エアサーカスへ雇われる事になる。彼女はRhonbussardでの曲技飛行やデモンストレーションフライトの経験もあった。そこで、エルンスト・ウーデットの特別の計らいで彼の乗機を操縦する栄誉に浴したのであるが、それですっかりRhonsperberを気に入ってしまい、早速彼の機体と同じ仕様のRhonsperberを注文してしまった。ところが、1935年暮れに機体がイギリスに届いたところで、彼女には払える額でないことがわかり、共同購入の出資者を募る羽目になってしまったのである。そこで名乗りをあげたのがキット・ニコルソン、フィリップ・クーパーとジャック・デヴスバリーであった。その機体は1936年1月3日にまずキット・ニコルソンの操縦でイギリスでの初飛行を行った。カラーリングはノーズ部分が濃紺に塗られ翼のリーディングエッジへと続いていた。翼の他の部分と胴体、尾翼は白であった (淡いグレーであったという説もあるが)。当時は、まだ透光性の布張りという機体はなかったはずである。濃紺に塗られた胴体と翼のリーディングエッジの湾曲に沿って栗色のラインが入っていた。このカラーリングは1937年に変更になりノーズ部分がクリーム色となり胴体後部は暖色系のグレーになっている。透明ニスによる影響で色の違いが生じたと考えられるが、胴体後部の青色の部分にはこのニスは使われていない。当時の機体は、布張りに透光性のドープとニスを塗って仕上げてあった。

 Rhonsperberは1936年にキャンプヒルのブラッドウェル・エッジで開催されたイギリス国際大会に参加しているが、天候不良で競技は3日間しかできなかった。そのためクロスカントリー競技が行えず、ヒヨルディスを駆るフィリップ・ウィルスの独壇場であった。翌年の大会も同じ場所で開かれたが、今度は天候に恵まれ、前年の覇者フィリップ・ウィルスもニコルソンのRhonsperberをかわすのに四苦八苦であった。477対408という得点にそれがよく現れている。また、両者とも他を大きく引き離しての一騎打ちという様相を呈していた。1938年には、ニコルソンのRhonsperberは、イギリス距離記録を争って、機体をミニモアに替えたフィリップ・ウィルス、フォックスの乗るRhonadlerとの三つ巴の戦いを演じた。春の東風に乗ってヒュイッシュからビグベリーまでの119マイルを飛んだニコルソンに軍配が上がった。ニコルソンが着陸したビグベリーは砂浜で、引き潮の時はイギリス一広大な砂洲となるものの、一旦潮が満ちると1.8mの海底となるような場所であった。当時のRhonsperberには、やっとスポイラーが取り付け始められたばかりで、ニコルソンのRhonsperberは歴代の機体の中では最も小さなスポイラーであったから、その着陸には非常に広い場所を必要としたのである。その直ぐ後に行われたダンスタブルの国際大会では、今度はフィリップ・ウィルスのミニモアが直ぐに記録を塗り替え、その強さをいやと言うほど見せつける事になる。1939年のブラッドウェル・エッジの大会では、再びニコルソンのRhonsperberが162マイルというすばらしい記録で栄冠を手にして優勝を飾ったが、この記録は1947年まで破られなかったほどの大記録であった。

 1940年3月30日、ダンスタブルのイースターキャンプでも一機のRhonsperberが飛んだが、その機体はトレーラーに収納されて一晩置かれていた。ところが、そこに車が突っ込んだらしくトレーラーに大穴があき、吹き込んだ雨により一方の翼が破損してしまった。1945年までは、その機体は破損した翼を除けば完全な形で保存されていたものの、有志の努力も空しく1960年代半ばには野ざらしの片翼と胴体が何とか原形を留めるのみという姿になっていた。その後少しずつ修復がなされ翼の主桁が新調されたのを機に、Rhonbussardの尾翼を流用したり新たに主翼とラダ-を作ったりといったヴィンテージ・グライダー・クラブの面々の努力の甲斐あって、Rhonsperberの復元に成功したのである。


<テクニカル・データ>

 1935年になるとクロスカントリー飛行をするパイロットが急増した。それまでは、クロスカントリー飛行というジャンルは、高度な飛行性能を備えて高速が出せる、当時としては革新的な機体を操縦できるほんの一握りのパイロットにのみ許された競技であった。まさにそうしたパイロットのためにハンス・ヤコブスはRhonsperberを設計したのであった。クロスカントリー飛行のためには、高速性能だけでなく、サーマルを確実に捕らえられるように低速での浮きも求められていた。こうした点を考慮してハンス・ヤコブスはグルナウベビーなどの低速で浮きの良い機体にも、またKranichのような当時としては非常に高速な機体にも使われていたGottingen 535を翼型として採用することにした。Rhonsperberは当時の機体の中では、非常に滑空性能の良い機体であった。その滑空比は控えめに見積もっても理論上は1:20であったが、実際の飛行テストでは、それを上回る1:21.6であったし、また、幅広いスピード域においてその性能は維持された。さらに、大量生産された最初の機体群の一つでもあり、ライン川沿いにあるルードヴィヒスハ-ベンのシュワイヤー製作所で100機が生産されている。設計者のハンス・ヤコブスは、Rhonsperberの設計に先立ち1932年にRhonadlerを、そして1934年にはRhonbussardを手がけている。これらの2機はいずれも高翼機であったが、1934年のレーンの大会では、エントリーした100機のほとんどが高翼機であったため上方視界と後方視界が悪く、空中衝突事故が続発する事態となった。そのため、ワッサークッペの限られた空域を飛行することになる100機のグライダーには、必然的に視界の改良が求められる事になったのである。そこで、ハンス・ヤコブスがRhonsperberに採用したのが中翼構造であり、これによりパイロットの視界は360度遮るものが無くなり上方、後方ともに格段に改善されたのである。

 Rhonsperberも順風満帆の船出であったわけではない。1935年のレーンの大会6日目のことである。一機のRhonsperberの翼取り付け金具に不具合が見つかったのである。このため、その改修が完了するまで飛行禁止となってしまった。このニュースにパイロットたちは諸手を上げて同意し協力を惜しまなかった。そして、メカニックたちの超人的な働きにより9機のRhonsperberは、翌日には競技に無事参加する事が出来たのである。

 同大会でのエピソードをもう一つ。何機かのRhonsperberの主翼上面に小さいながらもスポイラーが取り付けられていたのである。それまでは、航空機に降着装置としてスポイラーが取り付けられたことは無かったのである。クロスカントリー競技は、まさにその黎明期であったのだ。確かに何機かのRhonsperberにはGoppingen製のエアブレーキが取り付けられたが、我々が知る限りでは1945年以降のRAF製になるまでは基本的にはこの装置は付けられていない。また、当初の機体にはエルロンの差動機構も付けられていなかった(もっとも、これはイギリスに運ばれた中の一機でのことではあるが)。この装置などは後の改修なのだが、当時、158マイルでのダイブでも機体は岩のごとくびくともしなかったというのは、Rhonsperberの基本設計がいかに秀逸であったかという良い証明であろう。

 Rhonsperberの後の発展型となるのが、1935年のKranich、そして、1936年のSperber Junior、Sperber Senior、Habichtである。Sperber Juniorは先にも書いたようにハンナ・ライチェのために作られた機体である。Gottingen 535という同じ翼型をもつものの、性能向上のために翼幅を広げてある。Sperber Seniorでは更に翼幅が広くなっており翼型も変更されているが、その翼型に関しては前述のようにどうもあまり良い選択ではなかったようである。



 何はともあれ、Rhonsperberの洗練されたデザインは疑いようの無いところである。その機体は、また大変に美しく、Rhonsperberの模型がロンドンのバウハウスデザインの展示コレクションにも殿堂入りしたほどである。


Chris Wills著「The Rhonsperber」より抜粋 Vintage Glider Club Descriptive Articles所収

翻訳 鎌田一郎 氏